第二章 小学校低学年 はじまりのドッヂボール ~自然の力を手に戦う男~
日本には義務教育という制度がある。私たちは小学校で6年中学校で3年、計9年間当該の施設に服役し刑務作業を行い続けなければいけないのである。勉学や道徳思想の押し付け、施設内清掃作業の強要、嫌いな食べ物を無理やり食わせる飯ハラスメントなど数多くの苦難が私たちを待ち構えているのだ。
だが、そんな刑務を小学生達はゲラゲラ笑いながらこなすのだから流石であると思う。
そんなこんなで私も例外なく小学校に入学する。
これは、義務教育という名の長い長い旅路の幕開けなのである。
1998年 4月某日
ぞろぞろと小綺麗な格好をさせた幼児達が白塗りのデカい建物に向かい、てこてこ歩いている。その群衆の中に一際頭の悪そうな面をした男児がいた。それが私である。
私はピカピカの一年生になった。夢と希望を胸にその大きな門をくぐったのだが、そうそう世の中うまくはできていないものである。
幼稚園でよく遊んでいた、YくんNくんは別々のクラスへと振り分けられ同じクラスの顔馴染みといえば近所に住んでいたMちゃん位である。
Mちゃんは頭が良く、目がくりくりとした可愛らしい女の子で、後に同じ珠算塾に通う事になる。そんな彼女だが入学して数週間後、具合を悪くしてか授業中盛大にゲロを吐いてしまった事を覚えている。可哀想に...
かく言う私はというと小学校に入学するや否や連絡袋のファスナーの鉄でできた引手をガリガリとビーバーの様に噛みちぎるなどの奇々怪々な行いをした私はクラスに中で速攻で浮き始めたのである。
2人組を作れば余り、給食当番中は隣の女子に足を踏みつけられ、休み時間には6年生からジャイアントスイングをくらい、MR.ビーンという渾名を付けられるなど散々な感じであった。
だがまあ、2年生に上がるまでには新たに友人ができた。通学路が同じSくん、獣医の息子のKくん等とはよく遊んでもらった記憶がある。
それと忘れていけない事がもう一つあった。
私の通学路の途中にあるピアノ教室に通っていたSちゃんの事である。
彼女は家の周りを木で囲み、クソでかい門を構えた謎屋敷から登下校しているお嬢様の様な娘で、大人しくどこか儚げな雰囲気を持っていた彼女に私はささやかな恋心を持っていた。いや、持ってしまっていた。
これが後に、私が小学校の記憶の中で、最大級の忘れたい出来事を引き起こす事になる。
それはひとまず置いておき、2年生に上がった私に転機が訪れる。
小学生の休み時間の代名詞とも言える競技、ドッヂボール。
ご存知の通りそれは大変暴力的な蛮族の球技であり、二手に分かれたチーム同士が抗争をし、手に取った球を親の仇の様に敵に投げつけ、1人も残さず皆殺しにした物の勝ちとなるチーム型バトルロワイヤルゲームだ。
例に漏れず私もその球技に参戦し、日夜球をぶつけ合っていた。だが私は非力なもので球をしっかりと片手では投げられず避けてはパスを回す、腰抜けファイターであった。
そんなある日、私があげたロブパスの飛距離が短く、相手に取られかけたのだが、上から降ってくる球を捕球に失敗しアウトを奪った事があった。
内野に1人残された私はある事に気がつく。
基本的にこの球技はボールを真正面から捕球する。
だが、上から降ってくる球を捕球する事には皆、慣れていない。
次にボールを貰った私はあえて、空高く相手の頭上にボールを放り投げた。
風に揺られながら重力の力で自由落下するボールは相手の腕を擦り抜け、地面に突き刺さる。
アウト。
これだ。
自然の力を使い私は次々と天からボールの雨を降らせた。
アウト。アウト。アウト。
ただ1人の生存者である私が、残る数名の敵を駆逐し味方陣営に勝利をもたらした。
菅 野 く ん 大 勝 利 。
それ以来、ドッヂボールでは優位性の人材として重宝され、無駄に高い回避力と謎の攻撃で敵陣営を撹乱するトリックスターとなったのである。
なお、数ヶ月後には運動神経の良い奴らが私の必殺自由落下攻撃を克服し、みんなからの熱い掌返しを喰らう事になる。
まあそんなこんなで、学校生活において悪くない位置取りで序盤の2年をこなして行ったのだが、
そこから先がある意味で、私の転落の始まりとも言える中学年(中学生ではないぞ)、の始まりなのである。
to be continued...